昭和48年03月13日 朝の御理解



 御理解 第20節
 「此方が天地金乃神よりおかげを受けておることを話にして聞かすのぞ。疑うて聞かぬ者は是非におよばず。かわいいものじゃ。また時を待っておかげを受けるがよし。めいめいに子を持って合点せよ。親の言うことを聞かぬ子が一番つまらぬ。言うことを聞かぬ子は、親もしかたがあるまいが。」

 言う事を聞かぬと言う事。言う事を聞くと言う事。金光様の御信心はそこで決って来る訳です。金光様の信心を頂いてお徳を受ける。これは神の言う事を聞くという、言う事を聞かぬ者は仕方がない。これはそんなら信心を頂いておりましてもそうです、信心を頂いておりましても、只親の言う事を聞かず只自分の言い分だけを並べ立てる事が信心の様に思うておる人もある。
 それではよしおかげを受けたにしましても、お徳を受けることは出来ん。いや神様が此方が天地金乃神よりおかげを受けて居る事を話にしておくと言う様なおかげになってこないと思うですね。私昨日御神前で「住」という字を頂いた。人遍に主と書いてある。お道の信心の最近は偉大性についてと、教祖様という方がどの様に素晴らしい又どの様な偉大なお方であったかと言う事をです、私が気付かせて頂くところ、また神様からお知らせを頂くところを、最近は聞いて頂いてとります。
 今の合楽の一つの動きというものが殆どそこにあります。教祖金光大神がどの様に偉大かと、例えば昨日の御理解に頂きますと、偉大な例えば宗教家と大きな宗教というたら、現在ではキリスト教、仏教をおいてはないでしょう。釈迦もキリストも成程偉大な宗教家です。けれども偉大な宗教家であられるお釈迦様でもキリスト様でも教祖金光大神の引立て役と言う事を頂いた。引き立てる為にお釈迦様があるのであり、又はキリスト様が有るのである。いわゆるキリスト教があったり仏教があるのである。
 どちらも何千年という、歴史を持っております。という程しにです、そういう偉大な宗教、世界最大と思われておった宗教家、キリスト様が、お釈迦様が、教祖生神金光大神の為に引立て役と言う事。まあそれをお芝居でいうならば、主役と脇役という意味で頂いたですね。その事を昨日は、美登里会でございましたから、いろいろその事で研修致しました訳ですけれども、本当にお話を頂けば頂く程、研修させて頂けば頂く程です、素晴らしい事になってくる。
 その教祖様の例えば、そういう天地金乃神様からおかげを受けられたおかげというのはどういう事かというと、いわゆる住という字、人を主と書いてある。ですから例えば教は十三日会です。十三日会は神様の願いが成就する日として合楽では大事に致します。そんなら神様の願いが成就すると言う事はどう言う事かと言う事を段々追求して参りますとです、結局は誰よりも彼よりも人間氏子が助かってくれると言う事が神様の願いであることが分かって来るです。
 私共が本当に助かると言う事が、だから御教えにも氏子あっての神神あっての氏子と言う様な表現をなさっておられる。氏子あっての神であり神あっての氏子である。いわゆる人間氏子を主にしておられると言う事。神の願いが成就するというから、神様のそんならどう言う様な願いというものを持っておられるか、というて神様の願いというものを追求して参りますと人間氏子が助かると言う事、幸福になると言う事になるのです。
 だからいかにも神様の言う事を聞くと言う事は、何が神様だけが得をなさると言った様なものではなくて、そうなって来ることによって、人間氏子がおかげを頂くと言う事になる。三代金光様のお言葉をお借りしますとね、いわゆる氏子が神様任せならというところは、いかにも私共が神様任せになると言う事は、神様の願いのために私共が神様のために犠牲になる様な感じがする。
 ところがそんならそれは何の為に私共が神様のところへ一緒になってしまうかと、それは神様が氏子任せになりたいからの他はないと言う事です。氏子が神様任せなら神様が氏子任せになると仰せられますから。神愛と言う事を申します。神愛のいわば表現というか現れというものは様々にいわば違います。昨日も美登里会で話したことですけれど、今頃からちょっと風邪気味でした。
 毎日五つの願いをしてますからねえ、第一体の丈夫を願っとりましょうが、それにこれは風邪でもひいたらおかしいと思いましてね、どうも寒気がしたり致しますから、いわゆる風邪を引く前提。そこで二日間私が午後から御用を御無礼して休ませて貰うた。おかげで三日間から風邪の気が抜けた様でおかげを頂いておる。今迄の私というか、私の修行中の時分の私というたら、もう風邪なんか全然問題じゃなかった。
 どんなに少々熱があってもやはり朝晩お水は頂きますし、いわゆる風邪なら風邪をもう押しまくっていって、そしてそこにハッキリ一心に神様へ向かうていきゃ、仮にどんな病気であってもおかげが頂けれるという、いわゆる確信に満ちたものであった。そんなら現在の私はどうかというと、ちょっと風邪気味だというたらもうそんなら二日間もここ御無礼すると言う様な事になっている。それはどう言う事かというと、天地金乃神様の御内容というものの中には父親と母親の愛情と言う様なものをいつも感じる。
 寒いという、そんなら着物を一枚とって表を一回り走って来いというのが父の愛なら、寒いならもう部屋でも暖かにしてから熱いものどん食べてから早うやすみなさいというのも親の愛。ですからね、これはやはりそこんところのおかげを頂く為には、先ずその父の愛というものが分かって神様の絶対というか、間違いのない事をです、先ずは体験させて頂くと言う事が前提とならなければならない。
 でなかったら、母親の愛というか、只愛撫されるというだけの愛では親神様のお心というものは分からない。だから只今修行中というところは、それは人が不自然にいうたり、無茶だというてもです、そこんところをこう、それこそ寒いなら一枚着物をかえって取らせて貰って、そして一生懸命働くとか、一生懸命走って来るとかというて、成程神様が教えて下さる通りにこの寒いのに、いうならシャツ一枚で走ってきたらポッポする様にかえって汗が出るようになったと言う様な体験を頂いてです。
 成程私共が一生懸命にならせて頂くと言う事によって、そんならこの体温だけでもです、寒いどころかかえって汗が出るような事実を私共がふんまえてからの母親の愛というものでなからなければならない。人間生身を持っとりますから、段々年を取って参りますと若い時の様な訳にはいかん。だから元気な若い時に私は本気で神様の、いうなら言う事を聞かせて頂く側に焦点を置かなければいけない。
 後は今度は神様の方が氏子任せになって下さるという、いわゆる神様本位から今度は神様が人間氏子本位に働いて下さるようになる。そういうおかげを神様願っておられる訳です。私共にそういう様な例えば表現をもってです、神様と私共の関係というものを説いておる宗教はないようです。ここにも金光教の信心の、いうならば普遍性というかね、誰でもが合点のいく信心と言う事が言えると思います。
 十三日会、それは神様の願いが成就することの為の尊い日として皆さんが一日を神様の前に奉仕をされる。そして信心研修等をなさる。けれどもその事とてもどういう事かというと、神様の願いが成就すると言う事は、どう言う事かというと、神様が腹いっぱいなんなさったとかどうこうと言う事じゃなくてです、結局は私共がおかげを頂かせて頂く為の十三日会であると言う事が分かります。それに只私共が、只自分達がままになることの為だけの、そんなら考え方がです、十三日会であってはならないと言う事。
 先ずは父親の愛を知り、そして後に母親の愛を実感するというおかげになって来なければ、そこんところがです、神の言う事を聞かぬ子は親でも仕方があるまいがと仰る神の言うことを聞くと言う事が先ず先だと言う事。親が子供に勉強をせよとまるきり親の為に勉強するごと思います。勉強すると親はおひぎんをやったり、嬉しい。だから子供はまるきり親のために勉強しよる様な感じだけれども、勉強し終ってしもうてから、分からせて貰うことは、決して親のためではなくて自分自身の為である。
 それを親はやかましゅう言うて、今日はまだ勉強しとるまいがというて怒ってでも勉強させる様なものだと。そこのところを私共が言う事を聞かぬ子は仕方が無い、いかに勉強せよというても勉強せぬ子はもう親でも仕方が無い。だから本当に勉強の必要性というものを自分で感じるようになって、又その時節を待って勉強したらよいという風に言わなければ仕方がない訳です。親でも仕方が無いのです。
 そこで私共はそこん所を自覚させて貰うて、例えば親から言われんでも勉強する。親の言うことを聞くと言う事はそのまま親の為ではない、自分自身の為であると言う事。そういう例えば神様と私共の関わり合というものを、そういう様な風に説いておられ、天地金乃神様からおかげを受けておると言う事も教祖自身が神様、いわば任せの御信心生活の中からおかげを受けておられる。そのおかげを話して聞かせて下さるのです。
 ですから、私共がその話を聞かせて頂く事になると、どうしても神様本位と言う事になって来るです。そこから今度は神様が氏子任せになって下さるというおかげが受けられる。神様の願いが成就するという十三日会でもよくよく分からせて頂くと、私共の願いが本当の意味に於て成就する事の為の十三日会であり、神様の願いが成就する事の為に精進すると言う事は、取りも直さず私共のおかげを頂けれる事の為であるという。
 私共が頂いておる教祖金光大神のお取次を頂いてです、頂いておる神様はそううい性質の神様であると言う事を知らなきゃいかん。そこでそんなら私共がです、本気で神の言うことを聞くという信心、本気で神様本位の生活を願わせて貰う。只自分の願いが成就することの為に拝みよる、参りよるというのであってはならないことが分かる。今日は人編に主という字を頂いた。しかも今日は十三日会という日にそう言う事を頂いた。いわゆる人間が中心、人間が主であるというのが金光教の信心です。
 何処までも例えば、神様が上の方から高飛車にこう、高い所におられるというのではなくてです、むしろ人間を中心にし人間を主としての信心、それが金光教の信心性格だとこう思います。そこで私共はそこんところを本当に体現させて頂く為にです、神様の言う事を聞くという姿勢を本気でとらなければいけない。そこから成程神様の願いが成就する日といわれる十三日会も本当いうたら人間の願いがそれこそ地上になる、人間の願いが本当に成就することの為にあると言う事を分からせて貰うていよいよ尊いものにならして頂かねばならんと思うのです。
   どうぞ。